学校という空間においてのみ行われる不思議な儀式。
それが「帰りの会」だ。
もちろん、企業においても終礼という似たものがある。
しかし、「帰りの会」というネーミングでの儀式はおそらく学校だけであろう。
さて、自分の学生時代も当たり前のようなあった「帰りの会」だが、ここ数年この儀式に一種の疑問を感じる。
「帰りの会って本当に必要なのだろうか❓」
様々な「帰りの会」を分析すると以下のようなプログラムがある。
・日直から開会の言葉
・今日の頑張った人紹介
・子どもたちからの連絡
・先生からの連絡
・机の整理整頓
・さようならの挨拶
プログラムのネーミングは違えど、こんな感じである。
先生からの連絡でプリントや宿題の配布もある。
数年前だと「ほめ言葉のシャワー」という実践も流行った。
自分で言うのも何だが、「帰りの会」のプログラムは可もなく不可もなくであり、別に悪くない内容である。
ただし、担任にしかわからない盲点が「帰りの会」には潜んでいる。
その盲点こそがストレスを誘発し、学級経営をギクシャクさせてしまうのだ。
「帰りの会の盲点」
それは、「帰りの準備をさせてから会を行う」ということだ。
当然ではないか?
当たり前ではないか?
なぜ帰りの準備をさせることが盲点なのか?
結論。
「真面目な子が損をするから」だ。
解説しよう。
授業の5時間目、もしくは6時間目が終わり、子どもたちは帰りの準備をする。
そして、帰りの会をし、さようならをする。
問題ない流れだ。
しかし、学級担任ならわかると思うが、「帰りの準備」というのは子どもによって速さの差がある。
もちろん、仕方がなくゆっくりな子もいる。
その子は何も悪くない。じっくり待ってあげ、時には手伝ってあげればいい。
ただし、中には「ふざけて」遅い子がいる。
これがよくないのだ。
一方、みんなのことを考え、素速く帰りの準備を行う子もいる。
ふざけている子は、席にも座らず、ダラダラ帰りの準備をしている。
真面目な子は待たされる。
つまり、真面目に行動してくれた子は、ふざけている子のために帰る時間が遅くなる。
もちろん、先生もふざけている子を注意するだろう。
しかし、その空間には真面目な子もいる。
自分は悪くないとはいえ、説教する・される空間にいるのは、いい気分なわけがない。
学級経営の大前提として、「真面目な人が損をしないクラスづくり」にするのは必須だ。
帰りの会によって真面目な子が損をしてしまうのは避けたいところだ。
ちなみに「ふざけている子」がすべて悪いわけでもない。
授業が終わったのだから羽根を伸ばしたい気持ちもあるだろう。
「帰りの会」という儀式さえなければいくらでも羽根を伸ばしてもいいのだ。
ここに解決策を述べる。
① 素速く帰りの準備ができるクラスにする
② 帰りの準備をさせる前に帰りの会をする
③ 6時間目が終わったら帰りの会をせず、すぐにさようなら
まず「① 素速く帰りの準備ができるクラスにする」のことだが、もし可能なクラスなら問題はない。
クラスの特性、先生の力量があれば問題ないだろう。
また、1年生担任の場合は、一斉に帰りの準備を教える時期も大切だ。
「みんなが素速く帰りの準備をすれば、その分早く帰れるからね」と、伝えてもよいかと思う。
次に「② 帰りの準備をさせる前に帰りの会をする」であるが、これはかなりおすすめだ。
帰りの準備をさせると、どうしても時間のズレが出てくる。
授業が終わった瞬間は基本、みんな席に着いていることが多いだろう。
その足並みが揃っているときに帰りの会をやってしまうのだ。
さようならの号令が終わったら、各々のペースで帰りの準備をしてそのまま帰宅すればよい。
最後に「③ 6時間目が終わったら帰りの会をせず、すぐにさようなら」であるが、ほぼ②と変わらない。
授業が終わったら、すぐにさようならの号令をする。
もちろん必要な連絡やプリント配布はそのときにやってしまう。
「今日の頑張った人紹介」や「ほめ言葉のシャワー」も悪くはないが、子どもたちの中には早く帰りたい子もいるし、先生としてもまずさようならの号令をしてしまった方が気がラクだ。
なぜなら、帰りの会だとどうしてもふざけている子を注意しないといけないし、様々な指導が入るからだ。
さようならの号令さえしてしまえば、それがなくなる。
ここ数年はこのパターンを行っている。
以上、帰りの会について述べた。
少しでも参考になれば幸いである。
最後に学級経営のおすすめ本を紹介する。
帰りの会をはじめとした、あらゆる場面の「手順」がわかりやく書かれている。
蛇足ながら、拙著の紹介もする笑
お時間があればぜひ!
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